日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。 日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。 今回は、味方良介さんの進学していた大学やフラガール、親指の事... こんにちは~chikuwaです! Copyright (C) 2019 NYANTA All Rights Reserved. RANASOLという人物を知っていますか? 知っていますよね! 古関裕而さんの幼少期. 山田 耕筰(やまだ こうさく、1886年〈明治19年〉6月9日 - 1965年〈昭和40年〉12月29日)は、日本の作曲家、指揮者。山田 耕作としても知られる。, 日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られる。, 東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)の旧板倉藩士、医師の父の下に生まれる。1896年、10歳の時に実父を亡くす。実父の遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学する。1899年、13歳のとき、姉のガントレット恒を頼り岡山の養忠学校に入学[1]。姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきを受ける。14歳のとき、関西学院中学部に転校。在学中の16歳秋に初めての作品「MY TRUE HEART」を作曲[2][3]。同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(後の東京芸術大学)声楽科を卒業[4]。, 1910年(明治43年)から3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。ベルリン時代の1912年(大正元年)には日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。, 帰国後の1914年(大正3年)に、岩崎が1910年に組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任されるが、自身の恋愛問題により岩崎が激怒し、資金源を断たれて翌年解散する羽目となる。1917年には渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開く。1920年(大正9年)12月には帝国劇場においてリヒャルト・ワーグナーの「タンホイザー」の一部などを日本初演。, 1924年(大正13年)には近衛秀麿と共にハルビンのオーケストラ楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰、これを母体に近衛と日本交響楽協会を設立。これは現在のNHK交響楽団の前身であるが、不明朗経理を理由に内紛が勃発。黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名を残し大部分の楽員は近衛と行動を共にしたため、山田派は崩壊した。弟子には内田元らがいる。, 1921年、文化学院音楽科主任となる。1926年、40歳の頃、湘南の茅ヶ崎町(現:神奈川県茅ケ崎市)に居を構える(同町に約6年間暮らす)。オーケストラ楽団の失敗により多額の借金を抱えていたが、同地で再起。「赤とんぼ」などの童謡名曲が数々生まれる[5]。, 1930年(昭和5年)、耕作から耕筰へと改名(後述)。1936年(昭和11年)にはレジオンドヌール勲章受章。1937年(昭和12年)には相愛女子専門学校(現:相愛大学)教授に就任。戦時体制が色濃くなった1940年(昭和15年)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任する。同年11月にオペラ「黒船」(当初の題名は「夜明け」)を初演。また皇紀2600年奉祝演奏会ではジャック・イベールの新作「祝典序曲」を指揮する。1941年(昭和16年)、情報局管轄下の「日本音楽文化協会」発足、副会長に就任、また音楽挺身隊を結成してしばしば占領地での音楽指導にも携わる。将官待遇となりしばしば軍服姿で行動したため、後の「戦犯論争」の槍玉に挙げられることとなる。1942年(昭和17年)に帝国芸術院会員に選出。1944年(昭和19年)には日本音楽文化協会会長。, 終戦後、自身の戦時中の行動に関して、東京新聞で音楽評論家・山根銀二との間に戦犯論争が勃発[6]。論争が収まった頃の1948年(昭和23年)に脳溢血で倒れ、以後体が不自由となる。1950年(昭和25年)、日本指揮者協会会長に就任し、また放送文化賞を受賞。1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。離婚・再婚を機に戸籍上の名前も「耕筰」と改める。なお、サインには“Kósçak Yamada”という綴りを使っていた。, 1965年(昭和40年)11月初旬、耕筰は聖路加国際病院に入院していたが、家族が東京都世田谷区成城5丁目に広壮な洋館風の邸宅を借りる。同年12月4日、耕筰は成城の自宅に退院してくる。そして12月29日、自宅2階の南向き10畳間で耕筰は心筋梗塞により死去した。79歳没。墓所は東京都あきる野市の西多摩霊園[7]。, 山田は積年の悲願として「日本での本格的なオペラの上演」と「常設オーケストラの設立」を掲げていた。しかし、山田一人ではさすがにどうしようもなかった。そこに現れたのが三菱財閥総帥であり、かなりの音楽愛好家でもあった岩崎小弥太であった。, 山田と岩崎の接点は、東京音楽学校のチェロ教師ハインリヒ・ヴェルクマイスターであり、チェロの指導で親交のあった岩崎に、自分が見た中で一番才能がある山田を引き合わせた。山田は岩崎の知遇を得てドイツ留学を果たす一方、岩崎自身も音楽鑑賞のサークルとして「東京フィルハーモニー会」を自ら設立し、スポンサーとなった。最初の頃は軍楽隊や当時人気のあった三越少年音楽隊などが一時的にまとまっての「合同オーケストラ」の形をとっていたが、やがて小規模ながら常設のオーケストラを作り、1915年(大正4年)から帝国劇場で公演を開始した。, ところが、この頃最初の結婚をした山田が程なく別の女性(後にこの女性と再婚)に手を出し、それを聞いた岩崎が激怒。岩崎からの出資が止められた東京フィルハーモニー会は金銭的に困窮することになり、1916年(大正5年)2月にはあっけなく瓦解、山田の悲願は頓挫してしまった。, 東京フィルハーモニー会瓦解後、訪米やオペラ上演を経て再び常設オーケストラを作ることを夢見た山田は、「まず本場のオーケストラを呼んで世間の注目をオーケストラに集めよう」と、当時東洋一の実力を謳われていたハルビンの東支鉄道交響楽団を招くことを考えた。招聘話はかなりの部分まで進んだようだが、関東大震災であえなく挫折。翌1924年(大正13年)4月に日本交響楽協会をとりあえず設立したものの、山田は自身のパートナーを探していたし、楽譜などのインフラ整備はまだまだだった。そこに、ヨーロッパ留学から大量の楽譜とともに帰国したばかりの近衛秀麿が山田と面会。山田に助力する旨を伝えた。山田は近衛の参加と原善一郎というロシア語が堪能な敏腕マネージャーを手中にしたことにより、「悲願達成の機は熟した」と判断。大震災で断念した東支鉄道交響楽団の招聘に再び着手する。1925年(大正14年)4月に開催された「日露交歓交響管弦楽演奏会」は成功裏に終わり、それを助走として協会は1926年(大正15年)1月に最初の定期演奏会を開いた。6月まで12回の演奏会を開いたが、思わぬところから協会は崩壊する。, 1926年9月8日、近衛が原のリストラを不服として突如協会退会を宣言。近衛を支持する楽員が44名に達して近衛派は新交響楽団(新響)を設立。一方の山田は事情聴取までされた上に黒柳守綱と「モンパルナス・トリオ」(松原与輔、岡村雅雄、郡司昌雄)しか手元に残らなかった(黒柳と岡村は、山田が溺愛していたがゆえに渾身の思いで引き止めたともいわれている)。分裂の原因は使途不明の金銭にまつわる経理の不正が理由とされる。後に関東軍の情報担当にもなった策士の原が一枚絡んでいるという説があるが、もともと山田自身が金銭にルーズな性格だったことも一因として挙げられており、100円(当時)の儲けを山田が50円、残りの楽員全員で50円(平均で1人1円ちょっとの計算となる)としていたことに楽員が不満で、そういう楽員の心境を近衛と原が巧みに掴んで分裂に至らしめたとも言われている。分裂の後、山田と近衛は1931年(昭和6年)ごろに和解し、黒柳らも新響に合流したが、その近衛と原が新響を追い出されるのは4年後であった。このときも原が原因だったという。, 山田は金銭面の問題はさておき、指揮者としての実力や情熱は他の指揮者と比べても全く引けは取らなかったようであるが、実力や情熱を以ってしてもオーケストラの運営者として抱くには、どうしても乗り越えられないような壁があったのではないかという指摘もある。例えば井上道義は、「楽員は山田と近衛の性格を比較して、山田からカリスマ性を見出せなかったのではないか」と述べている。, 山田は戦後に脳溢血で倒れて体が不自由(左半身不随)になっても、しばしば指揮をした[8]。しかし、そのほとんどは別の指揮者に実際の指揮を任せていたという(ベートーヴェンが第九の初演指揮を、実質ミヒャエル・ウムラウフに委ねていたのと同じ感覚)。「黒船」を大阪で指揮した際も、実際の指揮を朝比奈隆が執っている。, なお、山田の管弦楽曲・室内楽曲などの作品は未出版のものが多く、しかも自筆譜のほとんどが戦災により焼失してしまったため筆写譜としてしか保存されていないなどの事情があり、出版・演奏の機会がほとんどないものが多い。楽譜の大多数は日本近代音楽館に所蔵されており、日本楽劇協会が管理している。1997年に春秋社から作品全集(既刊12巻)の第1巻として初めて管弦楽曲のスコアが出版されたがパート譜は製作されなかった。近年になって日本楽劇協会監修の下、株式会社クラフトーンにより一部の楽譜の校訂およびレンタル譜の製作が行われている。, 中高一貫校など複数の学校機関で校歌が共通しているものは「#その他一貫校などの学校歌」に記載, 山田は作曲や指揮だけではなく音楽教育にも力を注ぎ、多数の著書を残している。山田が関わった学校音楽教科書、声楽や作曲を学ぶ者へ書かれた専門書は、現在ではすべて新しく出た類書に取って代わられている。とはいえ、大正から昭和の前半においての日本の音楽教育に少なからぬ影響を与えている。, 1925年に出版された『生れ月の神秘』は、占星術に凝っていた彼が残した唯一の占い本である。彼自身は外国の本の翻訳だと主張しているが、原書は不明(1972年版のように訳書と断っていないものもある)。誕生月ごとに「性格」「なすべきこと」「短所」「慎むべきこと」「子どもの運勢」について、丁寧体かつ平易な口調で述べられており、再刊と絶版を繰り返しながら今日まで読み継がれている。, 2001年に、岩波書店で『山田耕筰著作全集』(全3巻)が刊行されている。これらに未収録の著書も多い。, 「嬰ト短調(1964年度から1972年度まで)」・「イ短調(1973年度から1982年度まで)」・「変ロ短調(1983年度から1992年度まで)」とピッチを半音づつ上げて使用していたが、1993年度にアニメーションを残しBGMとしては廃止された。, http://www.city.yonezawa.yamagata.jp/secure/5826/13takahasi-yosikazu.pdf, https://web.archive.org/web/20080930235332/http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001485861.shtml, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=山田耕筰&oldid=80298793, 1930年12月、「耕作」を「耕筰」に改名すると発表した。戸籍上は長らく「耕作」のままであったが、1956年に再婚したのをきっかけに「耕筰」に改めている。1948年に発表したエッセイ「竹かんむりの由来」(『山田耕筰著作全集 3』岩波書店に所収)によると、「山田耕作」と同姓同名の人物が多く(全国に100人以上いたという)、それゆえのトラブルが頻発していたのが、改名の理由の一つである。もう一つは、山田の指揮姿を見た, 関東大震災による都市の火災被害に衝撃を受け、本業の楽団運営問題に悩まされていた時期にも関わらず、1924年から翌年にかけて実弟の山田鐵雄と共に日本の狭い街路に適応する、輸入, 『スクリアビンに捧ぐる曲』 - 『夜の詩曲(POEME NOCTURNE PASSIONE)』、『忘れ難きモスコーの夜』の全2曲からなる。, 国際オリムピック派遣選手応援歌“走れ大地を”(1932年/作詞:齋藤龍) - 歌唱:, 『児童のための音楽 童話風に書かれた名曲レコードの鑑賞法』(日本コロムビア蓄音器/1932), 『若き日の狂詩曲』(大日本雄弁会講談社/1951→中公文庫/1996、新装版2016), 山田耕筰、園田清秀『子供のピアノ I 音の国への話』(一声社/1934) ※II以降は刊行されなかった。, 遠山音楽財団付属図書館編『山田耕筰作品資料目録』遠山音楽財団付属図書館、1984年。, 森脇佐喜子 『山田耕筰さん、あなたたちに戦争責任はないのですか』 梨の木舎、1994年。. こんにちは~chikuwaです! いよいよ新しい朝ドラ「エール」が始まりましたよね。 そして、「エール」では小山田耕三の役を志村けんさんが担当していたということが話題になっていましたよね。 小山田耕三のモデルになったのが今回、調べた山田耕筰という人物です。 【極シアター 第1・2幕】 加藤文代という人物を知っていますか? 古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年〈明治42年〉8月11日 - 1989年〈平成元年〉8月18日)は、日本の作曲家。本名は古關 勇治(読み同じ)。妻は声楽家で詩人の古関金子。 中川大志という俳優さん 山田耕筰が古関裕而の才能に嫉妬していたという説、ときどき目にしますがどうでしょうか?少なくとも、2014年に、こう考える重要な根拠が揺らいだように私は思います。この年、国分義司とギボンズ京子が、「古関裕而1929/30 かぐや姫はどこへ行った」(日本図書刊行会)という書籍を上梓しました(この本、現在版元品切れになっていますが、古関裕而記念館の物販で手に入れられるようです)。1929年にイギリスチェスター社作曲コンクール2位に受賞したという、古関の「竹取物語」の行方を追ったドキュメンタリーです。, 幻の楽曲「竹取物語」の譜面を探し、その全貌を明らかにしたい。そう考えた人たちがいたのは自然の成り行きでしょう。しかしながら、取材の中で、意外な事実が明らかになります。コンクールの主催者といわれたチェスター社は、コンクールの開催そのものを否定。入賞を客観的に証明するものが、一切残っていないことがわかりました(入賞を伝える新聞記事は、古関からの手紙を受け取った人物から情報が漏れて書かれたものなので、入賞の証拠にはなりません)。, 国分らは、どうやら古関は国際現代音楽協会のコンペに応募したものだと推定し、その結果も「入賞」ではなく、「入賞漏れ」だったと結論つけています(去年、今年と相次いで出版された、刑部芳則、辻田真佐憲の古関裕而本も、この結論に疑義を挟んでおらず、なにより、古関裕而の口述によって作成された自伝に、この入賞についての記述が一切存在しないのです)。, 国際現代音楽協会(ISCM)は、年に1度、「世界音楽の日々」という音楽祭を開催。これは現代にも続くもので、初回からの開催記録も残っています。協会は各国に支部があり、この支部が推薦した楽曲を5人程度の審査員がふるいにかけ、音楽祭期間中に演奏される作品を選びます。要するに、音楽祭中に演奏された作品が「入選曲」なのです(稀に、演奏があまりに難しい等の理由で、入選するも演奏されない、ということがあります)。, 国分・ギボンズの推定と、私のISCMについての知識を組み合わせてみますと、古関の「竹取物語」は、イギリスの支部推薦にとどまった可能性が高いと考えられます(音楽祭の演奏曲目から考えるに、このときのイギリス支部の一押しは、ウォルトン【当時28歳】の「ヴィオラ協奏曲」だったでしょう)。古関は、支部推薦の知らせを入賞と誤解してしまったのではないでしょうか?1930年のISCMの音楽祭は、9月1日から8日にかけて開催されました(古関夫妻が1930年の初夏くらいまでは本気で渡欧を計画していたのは、音楽祭入選の可能性に賭けていたのではないのでしょうか?)。当時、日本には支部がなく、新興作曲家連盟がISCMの支部になるのが1935年。日本で最初の入選者である外山道子は、パリ在住でフランス支部の推薦で入選してますから、古関がイギリス支部を通じてISCMへと出品した可能性は、十分にあり得るものと考えられます。, さて、この入賞が幻だったとすると、クラシック音楽の作曲家としての古関裕而の位置づけが変わります。「日本人として、世界のクラシック音楽の最高の栄誉に近づいた」新進ではなく、まだまだ発展途上の21歳だった、というイメージです(上京後に菅原明朗に師事し、在野の芸術音楽作曲家団体:新興作曲家連盟に加入するもここでは自作を発表せず、主に事務仕事をしていることもこのイメージを補強します。古関は、1937年までこの新興作曲家連盟の一会員であり続けました)。山田耕筰との関係も違った見方ができます。古関裕而は、高校時代より山田耕筰と文通をし、時には自作の譜面を送って批評を仰いでます。山田は、地方在住の無名の若者の手紙に丁寧に答え、職業作曲家としての実績がほぼゼロの古関を、手紙での交流のみから見出してコロムビアレコードに紹介した、大恩人ということになるわけです。, 1933年3月22日。来日したポーランド出身のフランスの作曲家:アレクサンデル・タンスマンを囲む、新興作曲家連盟のメンバー。後列右から2人目が古関裕而。, 古関裕而は、基本的には堅物でしたから(基本的には、と書いたのは、文通相手のもとへと現れて、いきなり婚前旅行に連れていくような、思い切った行動をみせる人でもあったからです)、山田耕筰の乱れた女性関係に憤ったりもしていました。こと女性関係においては、山田耕筰は本当にしょうもない人だったのです。パトロンに呆れられて大切なチャンスを棒に振ったりもしています。閑話休題。でも、古関は作曲家としての山田耕筰に対しては尊敬の念を持ち続けていたことは間違いない。何より、上京後の古関のジレンマは、山田のそれと共通するところがあったはずなのです。, 山田耕筰(山田耕筰が名前に「耕筰」の字を使うのは、1930年の12月以降なので、本来は「耕作」と書くべきですが、本稿では耕筰で通すことにします)は、姉がイギリス人宣教師と結婚したために、当時(1886年生まれ)としては破格な西洋音楽の教養を身につけられた人でした。山田耕筰がいなかったとしたら、日本の洋楽受容の歴史は20年遅れていたでしょう。山田の姉の夫:エドワード・ガントレットは、宣教師であると同時にオルガン技術者でもあり、山口県の秋芳洞の地質研究で歴史に名を遺した人でありました。山田は作曲家になるべく、東京音楽学校(今の東京芸術大学音楽学部)に進学しますが、当時は本科に作曲専攻はなく、声楽科へ入学しています。ここでの師匠の一人が、二歳年長の三浦環(三浦は再婚後の姓なので、当時は藤井、あるいは柴田環)でした。自転車で颯爽と学校へ通う三浦は、山田の悪戯の恰好の標的ともなり、山田は悪友らと徒党を組んでその進路を塞ぎ、自転車ごと三浦を上野精養軒脇の溝に落としてしまったこともあるのです。, その後、1910年から3年間ドイツに学び、その間に日本人の手になる最初の管弦楽曲と交響曲とを作曲。ただ、帰国しても日本にはまだマトモなオーケストラすらありませんでした(帰国後の1914年に、何とかオーケストラを参集して自作の発表会開催に漕ぎつけますが、ハープを借りてきたものの弾ける人がおらず、弦に印をつけ友達(素人)に弾いてもらうなど、三谷幸喜脚本喜劇のような滅茶苦茶をやってます)。, ドレミファソラシド、長調、短調という今では誰もが普通に感じている音感覚が、当時は自明のものではありませんでした。ラジオ放送の開始が1925年、日本初の本格的トーキー映画「マダムと女房」の公開が1931 年という歴史を参照するに、当時の日本人大衆の音感覚が現代人と同じと考えるのは間違いなのです(ちなみに古関裕而の戦前最大のヒット曲「露営の歌」は、日本の伝統的旋法である都節音階で書かれています。また、古関があと5年遅く生まれていたら、たとえば早坂文雄のように、映画のトーキー化によって必要になる映画音楽の仕事をしながらクラシックの楽曲を書いたかも知れません。映画音楽は、クラシック志向の強い古関にとって、歌謡曲の作曲より向いた仕事だったはずです。このように、生まれ年が5年違うだけで、周囲の状況がガラリと変わるのがこの世代の作曲家研究の面白く、難しいところです)。, そうした中、さまざまな啓蒙書を書き、西洋の音律に不慣れな人にも歌いやすい単純な唱歌を作曲し、時には地方の無名の青年との文通もして洋楽の普及に努めたのが山田耕筰で、その困難はクラシックの素養をベースに流行歌の世界に身を投じた古関にとって極めて身近なものであったはずです。むしろ、プロとして活動し始めていたからこそ、そのことに気付き得たのではないでしょうか?(もし「スラムダンク」をご存知の方は、桜木がシュートの打ち込み練習を繰り返したことで、流川のシュートの凄さに気付く「眼」を身に付けられたことを思い出してください。私は、この部分を読んだ際、マンガでここまで「学習」の本質に迫る作家が現れたかと、正直驚きました)。, だからこそ、古関裕而は「福島行進曲」に続いてリリースした、「平右衛門」(1931)の作曲を山田耕筰から褒められたとき、「頰は紅潮し、涙があふれそうに」なるほど感激するわけです。古関は1933年6月、山田がロシアへの演奏旅行から帰ったあと、新宿で開かれた帰朝報告会にも駆けつけています。, さて、「船頭可愛や」を、双浦環ならぬ三浦環が吹き込み、コロムビアの青レーベルからリリースしたのは本当です。それに山田が嫉妬から反対したかといえば、こちらは完全に創作です。そもそも、三浦歌唱の「船頭可愛や」のレコードが出たのは、1939年の3月。音丸によるオリジナル版が出た4年も後のことなのです。, 「船頭可愛や」は売れなかったのではなく、売れたから、三浦環によるいわゆるカヴァー盤も出たのです。しかも古関は、1936年には「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」、37年には古関の戦前最大のヒット作「露営の歌」を発表。それを受けての三浦版のリリースだったわけです。加えて、山田耕筰は、1941年の三浦環の音楽会のために、「船頭可愛や」の管弦楽伴奏編曲もしています。これらを考えるなら、今週「エール」で行われているのは、山田耕筰にも、古関裕而にも、そして志村けんにも、ちょっと許しがたいほどの歴史改変だと思います。, 全てを事実通りに放送しろ、とは言いません。現在再放送中の「はね駒」で沢田研二が演じる松浪毅のモデルは、明治期のキリスト教伝道者で教育者の押川方義で、松浪は作中で主人公(斉藤由貴)と同い年くらいの子供を喪ったと言ってます。だが、史実では子供はちゃんと育っていて、それが後に天狗倶楽部メンバーとなる押川春浪。ここで、「押川春浪を殺してしまいケシカラン」とは私は言いません。, ただ、「エール」の場合は、そういう実在の人物に取材した純然たるフィクションとは言い切れない部分があり、作中で古関が作曲した作品を、「福島行進曲」でも「船頭可愛や」でも、そのまま使っているわけです。フィクションといいつつ、モデルが明らかな形で各登場人物が配置され、ドラマとタイアップした音楽番組が制作され、各種メディア記事が書かれ、事実とフィクションが相互浸潤しています。これをやるなら、事実の取り扱いにはもう少し謙虚であってほしいと思うのです。, (音楽)批評家。2002年度柴田南雄音楽評論賞奨励賞。現代音楽を中心にクラシック、映画、などについて執筆。、読売新聞、音楽現代、ミュージック・マガジン、ユリイカ別冊などに寄稿。. こんにちは~chikuwaです! 4月から朝ドラで、古関裕而をモデルとした俳優の窪田正孝さんが演じる古山裕一が主人公の「エール」が始まりますよね! なので、今回は「エール」の主人公・古山裕一のモデルになった古関裕而の子孫や兄弟についていろいろ調べまとめてみました。 女優で、加藤茶の... こんにちは〜chukuwaです! これは北原白秋のざれ歌のような詩に作曲した歌で、北原白秋は大いに気に入り、山田耕筰も褒めたという曲ですが、残念ながらヒットという訳には行きませんでした。 アルバイトはバレましたが、なんとか退学はまぬがれ、藤山一郎は最優秀の成績で卒業し、クラシックを歌うときは本名で� 緊急事態宣言が終わってもまだ本調子でない毎日。自粛生活のストレスを音楽を聴いたりこのブログを書いたりして紛らせています。, シュテファン寺院の地下にはペストで亡くなった人々のおびただしい数の白骨が未だに埋められていました。, 昨年3月にウィーンを訪れた時、ペストは昔の話としか思いませんでしたが、今回の新型コロナを見ると、医療が発達しても同じようなことが起こることがよく分かります。, いつの日か、世界中に「新型コロナ記念柱」が立つ日まで、一人一人がストレス解消法を見つけながら息長くがんばりましょう!, NHK朝の連続テレビドラマ「エール」を録画で観ています。今回は音楽がテーマということで、いつも以上に関心を持っています。, 主人公の古関裕而(1909~89年)の名前は知りませんでしたが、戦前から東京オリンピックあたりまで幅広く活躍した作曲家で、早大応援歌「紺碧の空」、タイガース応援歌「六甲おろし」、「オリンピック・マーチ」などよく知っている曲が多くあることに驚きました。, もともとクラシック系でしたが、コロムビア専属になって歌謡曲も含めた幅広い作品を作った人です。, クラシック音楽を日本に根付かせようと奮闘しながら、一方で日本らしい愛唱歌を多く残しています。古関をコロムビアに紹介した人で、「エール」では新型コロナで亡くなった志村けんさんが演じて話題になっています。, 私が二人を結び付けて考えるようになったきっかけは軍歌です。山田が多くの軍歌を作った話は聞いていましたが、古関も「露営の歌」(貴様と俺とは同期の桜~)など誰もが知っている軍歌を作っています。彼らは戦前戦中戦後の社会においてどのような役割を演じたのでしょうか…?, 古関と同世代で古関と同じコロムビア専属作曲家だった彼は、クラシック系の古関とは対照的に明大マンドリン部出身の根っからの大衆音楽系。古賀メロディーで日本人の心の琴線を揺さぶります。, 古賀の出身地は私が勤務していた福岡の近くの大川。古賀政男記念館を近くに見ながら「古賀メロディーは古いよなあ」などと当時は思っていました。, ともに5千曲を作曲したと言われる古関と古賀。ふたりの活動はどう違い、どう交わるのでしょうか。, 朝ドラ「エール」で古関裕而のことを知って最近買った2枚組CDです。歌謡曲、スポーツマーチ、番組主題歌から軍歌まで、38曲がオリジナル録音を中心に詰まっています。発売元はもちろん日本コロムビア。, マーチや応援歌は、作曲のツボを押さえた素晴らしい職人技。デパートの閉店時にかかる「蛍の光」「アニー・ローリー」の編曲やNHKの番組テーマ曲もまさに職人技です。, 「長崎の鐘」などの歌謡曲や、彼が一躍メジャーになった軍歌は、古賀メロディほど「日本人の心をわしづかみにする」のではなく、さりげなく心の琴線に触れる感じですね。, ところで、「露営の歌」にせよ「若鷲の歌」にせよ、昭和の軍歌ってなぜ短調で悲壮感漂う歌が多いのでしょう?勇壮な「軍艦マーチ」は明治の古い歌ですし…。古関によれば、兵隊さんたちは短調の曲を好んだとのこと。短調の軍歌はまさに兵隊さんたちの悲壮感そのものだったのかもしれません。, ・山田耕筰作曲 長唄交響曲「鶴亀」、交響曲「明治頌歌」、舞踏交響曲「マグダラのマリア」, これは20年ほど前、香港のNAXOSレーベルが「日本作曲家選輯」シリーズを出した時に興味を覚えて買ったものです。, ・山田が傾倒したというリヒャルト・シュトラウスの交響詩を思い出させる「マグダラのマリア」(1916)→, それが単に西洋音楽の受容の発展段階なのか、満州事変(1931)→日中戦争(1937)→太平洋戦争(1941)へと突入していく社会・政治情勢と山田の立場を反映したものでもあるのか、私には分かりません。, 3人はそれぞれの個性を発揮しながら音楽表現を続け、戦争という大きな流れに巻き込まれながらもやっぱりそれぞれの役割を演じています。, 最年長の山田はドイツに留学し、西洋音楽を学んで「日本人初の交響曲」を作曲。日本に戻って本邦初のオーケストラを作ります。彼の作風は次第に日本風になり、唱歌や童謡も作曲します。古賀は明大に入学、古関は銀行に就職します。, 古関はイギリスの音楽コンクールに入賞し、コロムビアに入社。しかし、作品は早稲田大学の応援歌くらいでした。コロムビアに後から入った古賀は音大生の藤山一郎の歌で大ヒットを連発。二人には差がつきます。, 山田は作風がますます日本化。古関は「船頭可愛や」でやっと初ヒット。「六甲おろし」はこの時期の作品です。古賀は藤山とともにテイチクに移り「東京ラプソディ」などがまたヒットしました。, 山田は日本の西洋音楽受容の総まとめとも言うべき日本初のグランドオペラを発表。時局柄軍歌も作っています。古関は軍歌「露営の歌」が大ヒットし、軍歌や戦時歌謡で人気作曲家としての地位を確立します。古賀は「人生劇場」をヒットさせますが、国策映画の音楽も作っています。, 山田は戦時色の強いカンタータや軍歌を作り、戦時下の「日本音楽文化協会会長」に就任します。古関は引き続き軍歌や戦時歌謡で存在感を示し、古賀も戦時歌謡を作るなど、音楽界も戦争一色の時期です。, …福島トリオの作品。前奏は戦後のNHKスポーツショー行進曲とそっくりの長調で始まるがすぐに悲愴な短調に変わり、途中で一瞬長調で盛り上がるがすぐに短調に戻る。断末魔の叫びと未来への希望が明滅するような不思議な作品。, ※YouTubeで見る時は「伊藤久男・歌」をお聴きください(春日八郎バージョンはアレンジが違います)。, 山田は終戦直後の戦争責任論や病気もあり作品は減少。古関は菊田一夫と組んで戦後復興のNHKラジオドラマで活躍したほか、スポーツ曲、マーチ、かつて古賀の盟友だった藤山一郎の歌う歌謡曲等で活躍。古賀は引き続き古賀メロディーでヒット曲を連発します。, 古関は菊田一夫と組んだ舞台劇の音楽に取り組みます。古賀は村田英雄や美空ひばりに古賀メロディーを提供してヒットを継続し、日本作曲家協会会長に就任。二人の活躍はオリンピック(古賀は五輪音頭、古関はオリンピックマーチ)の後まで続きます。, 古関裕而は山田耕筰の弟子ではありませんが、西洋音楽を日本に浸透させるという意味で、古関は山田を継いでセミクラシックの分野を開拓した人なのかなあと思います。, 古関のクラシック音楽は殆ど聴くことができませんが、NHKの「らららクラシック」で彼の室内管弦楽曲「亡き愛児に捧ぐる歌」の演奏を聴きました。フランス風の色彩的な音楽でした。クラシックの道に進んだら、武満徹(フランス系の音ですよね)のような巨匠になったのでしょうか。, 古関の歩んだ道はクラシックではなくもっと庶民的でしたが、最後は菊田一夫と組んで東宝ミュージカルに取り組み、「二人の夢は日本のオペラを作ることだった」という人もいます。, 日本に西洋音楽を持ち込み初のグランドオペラを作った山田耕筰は、「日本人に合うのは理知的な交響曲ではなく情に訴える声楽曲だ」と考えていたそうです。その魂は、「庶民のオペラ」とも言われるミュージカルの礎を作った古関に受け継がれたともいえると思います。, マーチとか舞台音楽とか、割に大掛かりで構成が重要な音楽の中に魅力的なメロディを盛り込む「バランスの古関」。日本人の心の襞の奥底に入り込むようなコード進行とメロディで涙と笑いを誘う「情の古賀」。, 古関の音楽はピリッと背筋を伸ばして歌い、古賀の音楽は仕事帰りに屋台に肘つきながら聴く…そんな違いでしょうか。, デビュー当時に作曲された古関の「紺碧の空」と古賀の「影を慕いて」がその違いを象徴的に表しています。, 時代の流れに伴い、いわゆる「ど演歌」古賀メロディーがやや古く(懐かしく)なるのに対し、より西洋風の古関作品が色褪せない印象はありますが、優劣とはまた別だと思います。, 古賀メロディーとか演歌も決して純粋日本音楽ではなく、日本人の情念を西洋音楽の楽器やハーモニーで表現した「大衆音楽の西洋音楽化」だったのでしょうね。, 一般人が軍事教練に駆り出されるように、作曲家には国策遂行のための音楽が求められるのは自然の成り行きという面もあると思います。ただ、どういう立場でどこまで積極的にやるかは本人次第でしょう。, 「日本人には情に訴える声楽曲が合う」とする山田は、戦時色の強いオラトリオ(どこで演奏し誰が聴いたのでしょう?)も多く作曲しました。国策団体である日本音楽文化協会会長にも就任し、彼が憧れたリヒャルト・シュトラウス(ナチスドイツの帝国音楽院総裁)と似たような立場になった訳です。, しかし、「露営の歌」「予科練の歌」など軍歌で有名なのはやはり古関でしょう。古関はなぜ軍歌で一躍メジャーになったのでしょうか。, 古関は軍歌だけでなく、応援歌、戦後のラジオテーマソング、マーチなど、人を鼓舞する音楽を多く作っています。だから「エール」なのかな。, 応援歌、マーチ、軍歌…古関はどちらかというとリズムをきちんと刻む音楽が得意だったのかもしれませんね(そこはドビュッシーなどのフランス系クラシックというよりはドイツ系のイメージです)。しっとりまったり系の古賀とは対照的です。, その中で、古関の戦時歌謡「愛国の花」は軽やかなワルツ風の清楚・静謐な異色の名曲で、今聴いても感動します。戦後に東南アジアで流行ったというのも分かる気がします。, 戦地に赴く兵隊さんを鼓舞する軍歌を作る時の気持ちはどんなものだったのか…。上にも書きましたが、戦争末期1944年の「嗚呼神風特別攻撃隊」には戦後の平和を希求するような響きも垣間見られます。, 今回のブログを書くにあたって古関の作品をちょっと調べて思ったのですが、舞台音楽の記録を追いかけるのは結構大変です。, ネットには「菊田一夫と組んで東宝で数多い舞台音楽を作曲」などとありますが、題名が分かったのは、年表に挙げた「敦煌」「放浪記」「蒼き狼」「津軽めらしこ」ほかいくつかだけです。題名は分かっても、ほとんどの場合、どんな音楽か分かりません。YouTubeでNHK番組のミュージカル「香港」の音楽を聴いたくらいです。, 舞台の音楽は再演されない限りお蔵入りになってしまいますが、菊田・古関が積み重ねた東宝ミュージカルのお客さんがその後のミュージカルファンに育っていったのでしょう。, 東宝ミュージカルの土台の上で、菊田一夫が日本初のブロードウェイ・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」を上演したのが1963年。1965年の「サウンド・オブ・ミュージック」では古関が音楽監督を務めたという記述も見かけます。, 私が小さい頃、テレビでミュージカルの断片を見て、しゃべっていた人が突然歌い出したり踊り出したりして珍妙なものだなあと思いました。今のミュージカル・ブームを見ると隔世の感があります。, 現在、ミュージカルに活力をもらう人はとても多いでしょう。古関の目指したクラシックの技法と人を鼓舞する音楽がここで結びついているように思います。, 朝ドラ「エール」で興味を持った古関裕而を中心にあれこれ調べて書いてみましたが、今まで知らなかったことが結構多くて楽しめました。, 西洋音楽が氾濫する今、それを受容し日本的なものと融合させ、今日の基礎を作った人たちに思いを寄せるのも、「エール」の見方として面白いと思います。, それとともに、こうして築き上げられてきた音楽を今現在担っている人たちが、新型コロナで大変な打撃を受けていることを考えると、我々ひとりひとり何ができるのか考えなければ、と思います。, ・若き古関が目指した「世界的なクラシック作曲家」というと、日本では武満徹(1930~96)でしょうか。古関より20年ほど若く、彼も古関同様ほとんど独学で作曲を学んだそうです。琵琶や尺八の「ノヴェンバー・ステップス」、いいですね。, ・このCDは、冒頭紹介した山田耕筰の長唄交響曲CDとほぼ同じ2001年頃に買ったもので、NAXOSの日本音楽シリーズの第1作でした。, ・山田の弟子で指揮者として有名な近衛秀麿(1898~1973)が編曲した「越天楽」(1931)は、オーケストラによる日本の古典文化の紹介であり、ストコフスキーも録音したそうです。, ・古関の5歳下の伊福部昭(1914~2006)はほとんど独学で作曲を学び、本場西洋の模倣が多かった当時から日本民族主義的な作風です。映画「ゴジラ」の変調子(7拍子?)による厳格で不気味な音楽が有名です。, ・芥川也寸志(1925~89)は芥川龍之介の三男でテレビ等でもよく顔を見ましたね。同世代では、團伊玖磨(日本でおそらく最も有名なオペラ「夕鶴」を作曲)、黛敏郎(「題名のない音楽会」の司会、東京オリンピック映画の音楽も担当)なども有名です。, ・山田の言うとおり、日本人がソナタ形式の交響曲などを作っても面白くないと思いますが、形式から解放された現代音楽では日本人の情緒や感性が発揮しやすいし、日本のオケも現代音楽の方が反応がいいと思います。現代音楽こそ日本の出番!?, ・古関裕而がイギリスに留学して純粋クラシック界に入ったらどんな大作曲家になっていたか分かりませんが、私も含め多くのリスナーにとっては、コロムビアに入ってもらってよかった…ということでしょうね。.

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